先日、「ジョーカー」と「ホテル・ムンバイ」を
立て続けに観るというハードな時間を過ごしました(笑)。
観たい映画が続くということもあって、
久しぶりに1日で2本の映画を観ましたね(≧▽≦)。
10代の頃は「3本立て」の映画館が普通にあったので、
1日3本の映画を観るということも普通だったのですが、
シネコンが主になった現在では、久しぶりなことでした。
「ホテル・ムンバイ」は実際にあったインドでの
同時多発テロが、生々しく描かれていました。
なんでか?映画が始まると同時に胸がドキドキして、
ずーーーっとドキドキしていましたね(///∇//)。
主人公のアルジュンを演じたデーブ・パーテルを見た時、
なんて純粋なお顔をされた方なのだろう!と思ったのですが、
あとで調べてみますと、「スラムドッグ$ミリオネア」の
主人公でもあった方なんですよね(*´▽`*)。
「スラムドッグミリオネア」のダンスシーンは
ムンバイ駅で撮影されたのですが、
その数か月後に、その場所がテロの標的になったことで、
「ホテル・ムンバイ」に出演するデーブ・パーテルの想いも、
かなり強かったのだと思います。
主人公のアルジュンはインドの5つ星ホテル、
「タージマハル・ホテル」で給仕係として働く男性です。
生活は楽では無いけれども、仕事熱心で誠実で家族思い。
その日も、靴を落としてしまってサンダル姿のアルジュンは、
料理長に接客はしないように命じられますが、
奥さんのお腹に新たな命が宿っていることを説明して、
なんとか靴を借りて仕事にありつきます。
なんやかんやと有りながらも、
「日常」であったはずのその時。
他の場所でテロに遭った人々がホテルに助けを求めて
殺到する中に、テロリストたちも混じっていました。
豪華なホテルで、機械的に、無表情に、
逃げ惑う人々を容赦なく撃ち殺していくテロリストたち。
でもその姿は、「少年たち」でした。
「俺たちは神の使いだ。お前たちもそうだ。
俺たちの富を横取りした白人を殺すのは、
神の為だ。」
そう洗脳された、少年たちでした。
ホテルの水洗のお手洗いに驚くような、
純朴なはずの、少年たちでした。
女性の遺体のブラジャーの中を探れと命令されても、
「それはできない」と断ってしまうような、
敬虔なはずの、少年たちでした。
「おまえたちの生活が苦しいのは、あいつらのせいだ。
あいつらを殺せば、おまえたちも神の元へ行ける。
神の仕事を手伝えば、おまえのたちの家族には金を払う。」
そう、言いくるめられた、少年たちでした。
でも、中には信じきれない少年もいて、
負傷した痛みに耐えながら父親に電話をして、
「お金を払ってもらった?必ずお金を払ってもらうんだよ。」と
話す子もいました。
本当は、気付いていたのかも知れません。
恨みや憎しみや、自分たちの欲望の為だけに、
テロリストの親玉に利用されていることを。
本当は、テロなんてしたくなかったのでしょう。
お父さんやお母さんを、楽させてあげたい。
妹や弟だけでも学校へ行かせてあげたい。
ただ、それだけだった。
そんな純粋な気持ちに、お金をチラつかせて、
つけ込んで、殺戮マシーンに仕立て上げる。
純朴な人の人間性を破壊するところから、
もう既にテロは始まっているのだと思います。
ホテルマンたちは生き残ったお客様を
助けが来るまで窓のない部屋に誘導しますが、
その際、調理長が、逃げたい者は逃げていい。
恥でも、謝ることでもない。とホテルマンたちに告げます。
みんな「日常」が在り、それぞれの事情や考えがあり、
立ち去る人も残る人もいましたが、
実際にあの場所に居れば、逃げる選択をした人を
誰が責められるでしょうか。
そして逃げた方々も後々、それを後悔する人、
あの時の選択は、あれが最善だったのだと思える人、
それぞれだと思います。
お客様の中には、アルジュンの「ターバンと髭」という風貌に
恐怖を感じるから、外して欲しいと言い出す老女もいましたが、
アルジュンは老女に家族の写真を見せ、
ターバンも髭も、シーク教徒としての誇りと歴史があることを説明して、
それでも外して欲しいと仰るなら外しますと言いますが、
老女は微笑みを見せ、その必要はなくなったことを告げます。
話すことも無く、外見だけ見ていれば怖くても、
誠実にお話をして、
「お互いに同じ人間なのだ。誇りと歴史を持った人間なのだ。」
ということさえ伝われば、何も怖くないんですよね。
「わからない」ということが「恐怖」や「恐れ」に繋がり、
お互いに伝えよう、わかろう、とすることで、
恐怖も恐れも、ただの誤解や偏見でしかないことに
気付くのですよね。
映画の内容は本当にリアリティがあって、
大きな爆発音を聞いた後は、耳が聞こえにくくなる状態とか、
銃の発砲音とか、「その場」に居るような感覚でした。
「テロリスト」であるはずの少年たちも
ホテルマンもお客様も、本当は誰一人として、
「悪人」なんかでは無いし、
誰一人として、平穏な日常から突如、
大切な人を奪われなければいけない謂われは無いのです。
断じて、無いのです。
ですが、これはこの世界の現実です。
自らの欲望の為に誰かや何かを「敵」に仕立て上げ、
自らは手を汚さず、他者の欲望に火を点け、
その純粋な気持ちを、愛情を利用するのです。
使い捨てにする為だけに。
テロは、非日常でもあり、極限状態でもあります。
一瞬一瞬で、命をかけた選択を迫られます。
その時に、どう動くか?何を選択するか?
平穏な日常の中でも、それは常に、無意識にしていることが、
非常時にも発動するのではないかなー?と思いました。
ロシアの元特殊部隊の方も人質のお一人だったのですが、
女性たちを集めたパーティをムンバイでされていたようで、
女性を集める際に電話で「で、その女性の乳首のサイズは?」って
レストランで、大きな声で話されていたシーンとか、
少年たちにボコボコにされても、隙を見つけて足首に噛みついて、
どんな状況下であろうとも反撃の機会を見逃さないところとか、
ちょっと笑ってしまいました(≧▽≦)。
「乳首のサイズ」っていうのが、未だ謎なのですが(笑)。
「日常」というものが、本当に奇跡の連続で成り立っているということ、
それは、いとも簡単に、
誰かの欲望によって壊すことが出来るということ、
「日常」をどう生きるか?ということが、
非常時にも反映されるのではないかということ。
市井の人々の日常の、尊さや美しさを感じると共に、
沢山の課題を与えられたように感じる映画でもありました。
じゅごんろ~どnote
立て続けに観るというハードな時間を過ごしました(笑)。
観たい映画が続くということもあって、
久しぶりに1日で2本の映画を観ましたね(≧▽≦)。
10代の頃は「3本立て」の映画館が普通にあったので、
1日3本の映画を観るということも普通だったのですが、
シネコンが主になった現在では、久しぶりなことでした。
「ホテル・ムンバイ」は実際にあったインドでの
同時多発テロが、生々しく描かれていました。
なんでか?映画が始まると同時に胸がドキドキして、
ずーーーっとドキドキしていましたね(///∇//)。
主人公のアルジュンを演じたデーブ・パーテルを見た時、
なんて純粋なお顔をされた方なのだろう!と思ったのですが、
あとで調べてみますと、「スラムドッグ$ミリオネア」の
主人公でもあった方なんですよね(*´▽`*)。
「スラムドッグミリオネア」のダンスシーンは
ムンバイ駅で撮影されたのですが、
その数か月後に、その場所がテロの標的になったことで、
「ホテル・ムンバイ」に出演するデーブ・パーテルの想いも、
かなり強かったのだと思います。
主人公のアルジュンはインドの5つ星ホテル、
「タージマハル・ホテル」で給仕係として働く男性です。
生活は楽では無いけれども、仕事熱心で誠実で家族思い。
その日も、靴を落としてしまってサンダル姿のアルジュンは、
料理長に接客はしないように命じられますが、
奥さんのお腹に新たな命が宿っていることを説明して、
なんとか靴を借りて仕事にありつきます。
なんやかんやと有りながらも、
「日常」であったはずのその時。
他の場所でテロに遭った人々がホテルに助けを求めて
殺到する中に、テロリストたちも混じっていました。
豪華なホテルで、機械的に、無表情に、
逃げ惑う人々を容赦なく撃ち殺していくテロリストたち。
でもその姿は、「少年たち」でした。
「俺たちは神の使いだ。お前たちもそうだ。
俺たちの富を横取りした白人を殺すのは、
神の為だ。」
そう洗脳された、少年たちでした。
ホテルの水洗のお手洗いに驚くような、
純朴なはずの、少年たちでした。
女性の遺体のブラジャーの中を探れと命令されても、
「それはできない」と断ってしまうような、
敬虔なはずの、少年たちでした。
「おまえたちの生活が苦しいのは、あいつらのせいだ。
あいつらを殺せば、おまえたちも神の元へ行ける。
神の仕事を手伝えば、おまえのたちの家族には金を払う。」
そう、言いくるめられた、少年たちでした。
でも、中には信じきれない少年もいて、
負傷した痛みに耐えながら父親に電話をして、
「お金を払ってもらった?必ずお金を払ってもらうんだよ。」と
話す子もいました。
本当は、気付いていたのかも知れません。
恨みや憎しみや、自分たちの欲望の為だけに、
テロリストの親玉に利用されていることを。
本当は、テロなんてしたくなかったのでしょう。
お父さんやお母さんを、楽させてあげたい。
妹や弟だけでも学校へ行かせてあげたい。
ただ、それだけだった。
そんな純粋な気持ちに、お金をチラつかせて、
つけ込んで、殺戮マシーンに仕立て上げる。
純朴な人の人間性を破壊するところから、
もう既にテロは始まっているのだと思います。
ホテルマンたちは生き残ったお客様を
助けが来るまで窓のない部屋に誘導しますが、
その際、調理長が、逃げたい者は逃げていい。
恥でも、謝ることでもない。とホテルマンたちに告げます。
みんな「日常」が在り、それぞれの事情や考えがあり、
立ち去る人も残る人もいましたが、
実際にあの場所に居れば、逃げる選択をした人を
誰が責められるでしょうか。
そして逃げた方々も後々、それを後悔する人、
あの時の選択は、あれが最善だったのだと思える人、
それぞれだと思います。
お客様の中には、アルジュンの「ターバンと髭」という風貌に
恐怖を感じるから、外して欲しいと言い出す老女もいましたが、
アルジュンは老女に家族の写真を見せ、
ターバンも髭も、シーク教徒としての誇りと歴史があることを説明して、
それでも外して欲しいと仰るなら外しますと言いますが、
老女は微笑みを見せ、その必要はなくなったことを告げます。
話すことも無く、外見だけ見ていれば怖くても、
誠実にお話をして、
「お互いに同じ人間なのだ。誇りと歴史を持った人間なのだ。」
ということさえ伝われば、何も怖くないんですよね。
「わからない」ということが「恐怖」や「恐れ」に繋がり、
お互いに伝えよう、わかろう、とすることで、
恐怖も恐れも、ただの誤解や偏見でしかないことに
気付くのですよね。
映画の内容は本当にリアリティがあって、
大きな爆発音を聞いた後は、耳が聞こえにくくなる状態とか、
銃の発砲音とか、「その場」に居るような感覚でした。
「テロリスト」であるはずの少年たちも
ホテルマンもお客様も、本当は誰一人として、
「悪人」なんかでは無いし、
誰一人として、平穏な日常から突如、
大切な人を奪われなければいけない謂われは無いのです。
断じて、無いのです。
ですが、これはこの世界の現実です。
自らの欲望の為に誰かや何かを「敵」に仕立て上げ、
自らは手を汚さず、他者の欲望に火を点け、
その純粋な気持ちを、愛情を利用するのです。
使い捨てにする為だけに。
テロは、非日常でもあり、極限状態でもあります。
一瞬一瞬で、命をかけた選択を迫られます。
その時に、どう動くか?何を選択するか?
平穏な日常の中でも、それは常に、無意識にしていることが、
非常時にも発動するのではないかなー?と思いました。
ロシアの元特殊部隊の方も人質のお一人だったのですが、
女性たちを集めたパーティをムンバイでされていたようで、
女性を集める際に電話で「で、その女性の乳首のサイズは?」って
レストランで、大きな声で話されていたシーンとか、
少年たちにボコボコにされても、隙を見つけて足首に噛みついて、
どんな状況下であろうとも反撃の機会を見逃さないところとか、
ちょっと笑ってしまいました(≧▽≦)。
「乳首のサイズ」っていうのが、未だ謎なのですが(笑)。
「日常」というものが、本当に奇跡の連続で成り立っているということ、
それは、いとも簡単に、
誰かの欲望によって壊すことが出来るということ、
「日常」をどう生きるか?ということが、
非常時にも反映されるのではないかということ。
市井の人々の日常の、尊さや美しさを感じると共に、
沢山の課題を与えられたように感じる映画でもありました。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞