2020年7月24日金曜日

効率って何?の精神で(笑)



いつもより多めにカオスっております~~~(ノ´▽`)ノ
縫う距離?がいつもより長いので、ひたすら~に縫い縫いしています♪


今回は紬の反物から作らせていただいております(*´▽`*)。優しくて涼し気なお色です♪

紬って、糸を撚るのも染めるのも反物に織るのも、ものすごーーーーーーーーく手間が掛かってるんですよね。普通の正絹の反物でも、ものすごく手間が掛かっているのですが、紬は反物として織り上がるまでの工程を見ているだけでも目眩がしそうです(笑)。

その昔、紬を織った女性は、精魂込めて織り上げた紬が愛おしすぎて、出荷する前の晩には一緒に寝て涙したとさえいわれるほどです。
しゅごい(≧▽≦)。

そのぶん丈夫で、普段着や仕事着としてもずっと着られていたんですよね。アメリカでいえばデニムのような存在でしょうか?

江戸時代に”奢侈(しゃし)禁止令”とかいう訳の分からない贅沢禁止令が出た時も、商人さんたちは「これは絹じゃない。木綿だ!」と言い張って紬を着続けたといわれています(笑)。江戸時代って、自由闊達な気風なようでいて、変な”令”って多かったですよね(笑)。

というよりも自由闊達であったからこそ、お上も変な令が出せて(笑)、庶民は庶民でそれに対して臨機応変に対応できたのかもしれませんね。
着物の多彩な「グレー(鼠色)」も、その時に生まれたんですよね。グレーや茶色や藍色しか着てはならぬと令が出て、それならその三色で思いっきり洒落てやろうじゃないの!って(≧▽≦)。



効率って何?それおいしいの?ってくらい、そんなものを無視して丹念に織り上げられた結城紬は、大島紬や牛首紬に比べますと柔らかめで、とても軽いです。

紬はしっかりしていて丈夫なのですが、お仕立て直後は着物としては固いので、寝間着として着て柔らかくしてから外出着にするって感じだったんですよね。どんだけお洒落さんやねん(笑)。

こちらの結城紬の反物も、着物としてお仕立てするには多大な難があるということで、私の元へ来てくれた訳ですので、効率って何?の精神で(笑)、お仕立てさせていただきます♪


2020年7月17日金曜日

精神の旅

はうっ!(@ ̄□ ̄@;)!!
気付いたら7月も半分を過ぎているではございませんか!

そんなバナナ。。。(´・ω・`)。

すっかりご無沙汰してしまいました💦


お店の作品も粛々と作らせていただいているのですが、
夏用の部屋着が。。。もう20年以上は着ていると思うのですが、ことごとく破けてきてしまって💦
そちらも粛々と作らせていただいております💦

なんか最近は同時期に「もうあかん」ってなることが多くて、というか殆どで(笑)、
昨年かなー?雪駄やサンダルやスニーカーやヒールも履物という履物がいっぺんに”崩壊”って感じで壊れたんですね(///∇//)。

破けるとか解れるとか穴が開くとかじゃなくて本当に”崩壊”して(笑)、修理できるような状態ですらなくなって、我ながらビックリしました(///∇//)。

洗濯機と炊飯器も同時に凄い音がするようになって(笑)、こちらも古かったので無理もないのですが、今回の部屋着といい、いっぺんに南無南無になるので「え?え?」って感じになってしまいます(///∇//)。

お蔭様で軽くて涼しい素敵な生地で、パンツ(ズボン)を作らせていただいています♪雨の日が続きますと洗濯ものが乾かないので、あと2~3枚ほど縫う予定です♪

そういえば今年の梅雨は京都とは思えない爽やかさで(笑)、「え?秋なの???」って思ってしまうくらいの心地よさです(≧▽≦)。

本日は例年であれば祇園祭の鉾巡行の日ですが、今年は徒歩での巡行が行われました。例年ほどの賑やかさや華やかさはありませんが、1ヶ月間続く祇園祭は粛々と進められています。

「観光公害」と呼ばれた頃から比べれば人出は減ったのかも知れませんが、「え?自粛って何?」って思ってしまうくらい、やっぱり人出は多いです(笑)。

ということで?今年の4月17日の京都新聞に載っていた荒俣宏(あらまた ひろし)さんのコラムを、ちょうど3ヶ月後の本日にご紹介です(≧▽≦)。

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街というのはもともと、人を集めて住まわせるところだった。「ちまた」という古いことばがあるけれども、これは「股になった(分岐した)」道を意味する。分岐した道が何本も交われば、人も多方向から集まり、やがてそこに住みはじめる。人の出入りが街をつくるのであって、そこには要も不要も、あるいは急も不急も区別がなかった。(中略)

日本人には旅の文化がある。暇ができると旅に出る。それもジャルパックで団体の海外旅行というお手軽なものだけでなく、自己をみつめ、自然を観察する「漂泊の旅」も、人気があった。島崎藤村が「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ」と詠じたように、不要不急を飛び越えて、侘び寂びの心境をもとめた。「遊子」とは遊んでいる子供ではなく、独り旅する人という意味だ。道理で、「遊」と「旅」は字形がよく似ているわけだ。

中国の字源論だと、「旅」は集団を作って先頭に旗を立てて道をすすむ形だそうだ。しかし、「遊」のほうはたった一人で道をすすむ形であり、「子」の字が「独り」を表わすらしい。しかも独りで旅するのは神の旅であり、自由にどこでも行ける。だから「遊ばす」という尊敬語も生まれた。

これに対し、「旅」のほうは軍隊用語に「旅団」という語があるとおり、整列して規律を保つ軍隊の行進である。どちらにも旗が関係するので、団体旅行のガイドが旗を持って先導する姿は偶然ではないかもしれない。

こうした旅行を可能にしたのが、道である。この字も「遊」に似ているが、首があるのは、これを掲げて邪霊を祓いながら異界へ踏み込む呪術を意味したらしい。そうやって、人が住める街にしたのだ。(一部抜粋)

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あらまあ。Wikipediaをリンクしようとして読んでみましたら、荒俣宏さん、戸籍上は今日がお誕生日だそうです。おめでとうございます(≧▽≦)。生まれてきてくださってありがとうございます(≧▽≦)。

本を買う為に殆どの生活費を切り詰めていて、お風呂屋さんに行くお金を節約したくて、公園の砂場で砂を浴びていたというお話を聞いた時にはビックリした荒俣宏さんです(≧▽≦)。

このコラムの中で、「独りで旅するのは神の旅であり、自由にどこでも行ける。」とあるのですが、そうだなー。独り以外では、必ずそこにルールや「合わせる」という行為が生まれて、完全な自由では無くなりますよね。

「遊」と「旅」の字形も確かに似ていて、「旅が遊び」であると共に、「遊びも旅」なのではないかなーと思いました。遊ぶことそのものが、精神を旅させるのではないかなーと。

最近思うのですが、人間も動物タイプと植物タイプがあって、動物って食べ物や環境を求めて移動するんですけど、植物って環境の変化に合わせて自分を変えていきますよね。「旅が遊び」は動物タイプで、「遊びも旅」は植物タイプかなーって。

よく「旅をしろ」って大人っぽい作家さんとか仰るんですけど(笑)、私はそれほど旅に萌えないというか(笑)、子供の頃も渋々行くって感じで、大人になってからも必要に迫られないと行かないって感じなんですよね(///∇//)。ものすごい方向音痴というのもあるかもしれませんが(笑)、行った先でも「へー。(・∀・)」って(≧▽≦)。

場所とか景色とか、何処に居るかというのは、私にとってはあまり重要ではないことなのかも知れないなーって。

「こうした旅行を可能にしたのが、道である。この字も「遊」に似ているが、首があるのは、これを掲げて邪霊を祓いながら異界へ踏み込む呪術を意味したらしい。」とありますが、道なき道を行くというか、道を創るということは、”異界へ踏み込むこと”なのかも知れませんね(*´▽`*)。