2019年7月27日土曜日

石橋凌という人。ARBというバンド。


いつだって、音楽は助けてくれた。
迷った時。悲しかった時。寂しかった時。
辛かった時。悔しかった時。
自分を許せなかった時。
暗闇の中で、一筋の光りさえ見えなかった時。

いつだって人生を併走してくれた。
そんな曲が、沢山あるという幸福。

そんな中でも、ARBというバンド、
石橋凌という人は、いつも私を挑発し続けてくれています。

「一緒にやろうよ」ではなく、
「俺はやる。おまえはどうなんだい?」と
ずっと問い続けてくれています。

新宿LOFT
石橋凌さんが何度もテレビやラジオで
話され続けてきたことですが、
ARBというバンドは、そもそもはアイドル的なバンドとして
売り出される予定だった為、
「政治的な事や社会的な事は一切、歌うな」と
禁じられたそうです。ラブソングを歌えと。

そういう歌を歌いたくて、海外みたいに日本でも
政治や社会を歌うバンドがお茶の間に入っていける、
そういう世界を目指していたのに。

会社の言うことを聞いて、ラブソングばかり歌えば、
それなりに売り出してもらえて、
それなりにお茶の間にも入っていけたでしょう。

でも自分の想いを捻じ曲げることはしなかった。

あっさりと会社を辞めて、ドサ回りの生活が始まり、
京都にも、磔磔や拾得というライブハウスを始め、
学園祭にも来られていて、よく聴きに行きました♪

新宿LOFT
「狂いたくても狂えない奴。笑いたくても笑えない奴。
泣きたくても泣けない奴。
総ての、ロックンロール・キッズに贈ります。」

噛みつくように、叫ぶように、吼えるように、
覚醒しきった目で歌う石橋凌さんは、
今思うと、当時はめちゃめちゃ色んなものと
闘ったはったんですよね。
自分との闘いも含めて。

それは、12~13歳くらいのパンク少女だった私と、
対象は違っても、同じだったのかも知れません。
多くのロックンロール・キッズ、パンク・キッズも。

得体の知れない怒りを抱えて。

新宿LOFT
普段はヘラヘラ教の教祖のように
ヘラヘラしている私ですが(笑)
何か事が起きると、反骨心がムクムクと湧き上がり、
「ああ。私の根っこは、
あのパンク少女の頃のままなのだなぁ。」
と、いつも思い知らされます(///∇//)。

新宿LOFT
最近では俳優さんとしての石橋凌さんしか
ご存知ない方も多く、
ARBも「伝説のバンド」になってしまいましたが、

今も色褪せることなく、問い掛け続けてくれています。
「俺はやる。おまえはどうなんだい?」

磔磔
石橋凌さんの書かれる歌詞、歌う声には、
言霊(ことだま)があると、よく言われていました。

歌詞に書かれた犯罪や社会情勢に、酷似した現実が
後から追い付いてくるからです。

今になりますと、「言霊がある」と言われたことも
よく解ります。

それは「言葉が放たれている」から。

楽屋
古ぼけた写真ですが、昔はカメラマンさんが
写真をくださったりって事も、よくあったのです。
私たちが子供だったからかも知れませんが(笑)。

田中一郎

石橋凌

上の2枚も、ホールでのコンサートの時に、
たぶんプロのカメラマンさんに
いただいた写真。

新宿LOFT
バンドから役者さん、そしてソロと、
転がり続けながら変化し続ける石橋凌さんは、
「表現者」を体現し続けはるのだろうなと
心強く、思います(*´▽`*)。

ARBを脱退された時、一部の方からは「裏切者」と
罵倒されはりましたが、
罵倒した方々も、悲しくて寂しかっただけなのでしょうね。
そのくらい、強い愛情があったというだけのこと。

大阪南港
大阪南港
暑かったなー。熱かった(笑)。

大阪南港
あ。私は当時も、写真を撮るのも撮られるのも
苦手だったので、友達が撮ってくれていました。

大阪南港
小学生の頃に、飛び抜けて大人っぽくて落ち着いた
同級生の男の子がいたのですが、
20代の時に、ARBのコンサートで、
その子とお互いに「あ!」ってなった時(笑)、
「ああ。やっぱりそういう子だったんだな。」と
思いました(笑)。

原田芳雄 田中一郎
松田優作さんや原田芳雄さんとも親交を深めた
石橋凌さんなので、ライブにも登場(笑)。

少し前に写真を整理していて、
そういえばARBや石橋凌さんのことを
ガッツリ書いたことが無かったなーと思って、
書きたかったのです(≧▽≦)。

「変人」という生き方にも書かせていただいた、
梅原猛さんもそうでしたが、

ARBというバンドと石橋凌さんも
確実に、私を作ってくださいました。

そんなリスペクトと愛を込めて、
書き残したかったのかも知れません。




じゅごんろ~どnote

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