2019年9月22日日曜日

「国」という制度


にわかラグビー観戦者のじゅごんです。
どうも(≧▽≦)。

ルールすらよくわかりませんが、
やっぱり世界レベルのスポーツは迫力があって、
何も分からなくても伝わってくるものがあると
申しますか。

何かを世界レベルまで極めることって、
私のような凡人以下の人間にとっては、
途方もない努力をされてきたのだろうなと
気が遠くなるような想いで観戦してしまいます。

そしてその分、沢山のものごとを放棄されてきたのだろうなと。

それ故の純粋な力?のようなものを感じて、
見ていても清々しいのですよね(*´▽`*)。
気持ちがいいのです♪

昨日の紙の方の京都新聞夕刊に、
神戸親和女子大教授、スポーツ教育学・身体論の
平尾剛さんが「現代のことば」に寄稿されていたのですが、
一部を抜粋させていただきますと、

「ラグビーは他のスポーツとは異なり、外国籍でも
その国の代表選手になれる。

ちなみにイングランドで行われた2015年のW杯では、
アルゼンチンを除くすべての出場国に
外国籍の選手が名を連ねていた。

つまりラグビーでは国籍が代表選出の絶対条件ではなく、
当該国に縁があるものを含んだチームを
代表とみなすのである。

歴史を振り返れば、国家という枠組みは
人為的に作られた制度である。
ウェストファリア条約を締結した1648年以降の
主権国家体制のもとで生まれた概念であり、
人類史を見渡せばたかだか500年にも満たない、
きわめて新しい考え方なのである。

その枠組みにおいてもたらされた二度の世界大戦を
私たちは忘れていないし、
国家間をめぐって政治や経済などで摩擦を生みだしているのは
記憶に新しい。

国際法による便宜上の線引きが、
個々の生活レベルにおいて分断を作り出そうとしている現状には
思わず目を覆いたくなる。

一人の人間が文化の違いを乗り越えるのは、
言葉でいうほど簡単ではない。
様々な壁を乗り越えた彼ら一人ひとりの
心の動きを追っていると、
応援する気持ちがますます湧いてくる。

国籍を問わないチームを想定する
ラグビーというスポーツは、
私たちが直面している多様化する社会での
然るべき振る舞い方を提示してはいないだろうか。

前回大会直前までキャプテンを務め、
多国籍の選手たちを束ねた廣瀬俊朗氏の言葉、
「常に、寛容でありたいな、と」に
すべてが集約されていると思う。」


「国」という漢字は「國」の略字で、
「國」は”矛(ほこ)”の象形と”村”の象形から
「武装した村」=「國」として出来た漢字です。

漢字の成り立ちからして、戦う気満々やん!って
思いました(笑)。

500年程度の歴史しかないなら、もうそろそろ、
「主権国家」という制度を放棄してもいいのではないかなーと
思いました。

移民の方々や難民の方々のこと、犯罪など、
様々な問題はありますが、
そもそもその問題も「国」という制度から
派生しているものも多いと思うのです。

移動手段も手軽になり、
ドローンでの移動が可能になる日も遠くないでしょう。
情報もあっという間に手に入れられます。

ふと50年後のことを妄想してみたのですが、
日本で毎日量産されているブログやYouTubeを、
人口の減った、若者の減った日本で、
いったい誰が読んだり視聴したりするのかなー?と。

50年後、100年後の子供たち。

現在の変化の速度を思いますと、
50年後でさえ想像もつきませんが、
人間の造り出した概念は、
どんどん崩壊していくように思います。

様々な社会制度が崩壊したように、主権国家制度も
崩壊する時は、それ程遠くないような。








じゅごんろ~どnote

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