云わずと知れたアメリカン・コミック、
1939年に誕生した「バットマン」の登場人物の一人である
”ジョーカー”が、一人の人間から”ジョーカー”に生まれ変わるまでの
オリジナル・ストーリーの映画です。
「ホテル・ムンバイ」と同じ日に観たのですが、
ホテル・ムンバイは涙が溢れてしまったシーンもありましたが、
「ジョーカー」は椅子に腰掛けた時から胸が詰まり、
お腹周りが重くなって、映画が始まってからは
主役のアーサー・フラック(後のジョーカー)を演じる、
ホアキン・フェニックスの演技から目が離せませんでした。
最初のシーンから、もうなんだか、
やるせない気持ちでいっぱいでしたね。
---------------------------------
時は1980年代、格差社会が広がる「ゴッサムシティ」で、
精神を患ったお母さんと二人で暮らすアーサーは、
いつかコメディアンになることを夢みて
道化師の衣装を身に纏い、お店の宣伝や病院の慰問などの
仕事をしていました。
アーサーも脳に障害があり、
発作的に笑い出すという症状もありましたが、
鬱屈した精神を抱えながらも、
それでも、同じ話を繰り返す母親のお世話をしたり、
子供を笑わせようとする、一人の優しい男性でした。
人々の心も荒廃していくゴッサムシティで、
社会と辛うじて繋がっていた、
他者と辛うじて繋がっていた、
蜘蛛の巣のような細い糸が、次々と千切れてしまうまでは。
市の財政難でカウンセリングも薬も絶たれ、
仕事仲間に嵌められて仕事を失い、
自分の父親だと聞かされていた名士から、
おまえの母親は狂っていると告げられ、
母親から聞かされていた話が全くのデタラメで、
本当は養子で、実の母だと思っていた養母と
養母の男から、幼い頃に苛烈な虐待を受けていた事実を知り、
辛うじて辛うじて繋がっていた蜘蛛の巣のような細い糸から、
アーサーは解き放たれます。
ささやかな幸せだった、妄想からも。
それは”絶望”という名の、ひとつの死でした。
養母を殺し、自分を嵌めた同僚を殺し、
養母から「本当の父親」と聞かされていた名士を殺し、
憧れの人だったのに、自分を馬鹿にして貶めた、
人気テレビ番組の司会者も殺しますが、
たった一人、小さな体の同僚には、
「優しくしてくれたのは君だけだったよ」と語りかけ、
殺すことはしませんでした。
彼が、アーサーが、決して狂ってはいなかった証拠のように。
格差社会と現状への怒りと不満で爆発するのを、
今か今かと待ち構えていたような市民たちにとって、
アーサーは期せずして英雄となり、
”絶望”という死から、”ジョーカー”は誕生しました。
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ストーリーとしては、それほど目新しいものは無いのですが、
救いが少な過ぎて、やるせなかったです(´・ω・`)。
ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスの、
圧倒的な演技力、圧巻の表現力が、
ジョーカーを実在の人物として、存在させたように思います。
笑い方、歩き方、走り方、座り方、自己陶酔の恍惚ダンス、
ひとつひとつの表情と、その変化の仕方。
元々なのか?手の爪の短さは、神経質で深爪し過ぎたか
爪を噛む癖があることを想像させます。
同じくジョーカーを演じた「ダークナイト」のヒース・レジャーは、
ダークナイトの公開前に28歳という若さで、
薬物併用の急性中毒で亡くなっていますが、
俳優の小栗旬さんが、「あのジョーカーを生んだ、
あの演技をしたヒース・レジャーがオーバードーズで亡くなったけど、
人間って心が弱いから、だからこそ別人格になることに命を賭けて、
現実がどこだか分からなくなる瞬間があるから、
そういうこともある。
自分たち役者は、演じる為に経験をすることも必要だけど、
殺人者を演じるからといって、殺人する訳にはいかない。
自分の想像力を信じて、それで補っていくしかない。」
的なことを仰っていたことがあって、
”ジョーカー”を演じるということは、そういうことなのだなーと
思いました。
私たちが「娯楽」として観ているものは、
ギリギリの、命懸けの人々が創っているからこそ、
ずーっと心に残ったり、様々なことを感じさせ、
考えさせてくれるのだなーと。
「ジョーカー」はあくまでもオリジナル・ストーリーの
フィクションではありますが、
現代社会と重なるような格差社会や鬱屈が描かれています。
アーサーも、決してフィクションの中だけの
人物像ではないと思います。
誰しもが、ジョーカーになる可能性を、
体の中に隠し持っています。
じゅごんろ~どnote
1939年に誕生した「バットマン」の登場人物の一人である
”ジョーカー”が、一人の人間から”ジョーカー”に生まれ変わるまでの
オリジナル・ストーリーの映画です。
「ホテル・ムンバイ」と同じ日に観たのですが、
ホテル・ムンバイは涙が溢れてしまったシーンもありましたが、
「ジョーカー」は椅子に腰掛けた時から胸が詰まり、
お腹周りが重くなって、映画が始まってからは
主役のアーサー・フラック(後のジョーカー)を演じる、
ホアキン・フェニックスの演技から目が離せませんでした。
最初のシーンから、もうなんだか、
やるせない気持ちでいっぱいでしたね。
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時は1980年代、格差社会が広がる「ゴッサムシティ」で、
精神を患ったお母さんと二人で暮らすアーサーは、
いつかコメディアンになることを夢みて
道化師の衣装を身に纏い、お店の宣伝や病院の慰問などの
仕事をしていました。
アーサーも脳に障害があり、
発作的に笑い出すという症状もありましたが、
鬱屈した精神を抱えながらも、
それでも、同じ話を繰り返す母親のお世話をしたり、
子供を笑わせようとする、一人の優しい男性でした。
人々の心も荒廃していくゴッサムシティで、
社会と辛うじて繋がっていた、
他者と辛うじて繋がっていた、
蜘蛛の巣のような細い糸が、次々と千切れてしまうまでは。
市の財政難でカウンセリングも薬も絶たれ、
仕事仲間に嵌められて仕事を失い、
自分の父親だと聞かされていた名士から、
おまえの母親は狂っていると告げられ、
母親から聞かされていた話が全くのデタラメで、
本当は養子で、実の母だと思っていた養母と
養母の男から、幼い頃に苛烈な虐待を受けていた事実を知り、
辛うじて辛うじて繋がっていた蜘蛛の巣のような細い糸から、
アーサーは解き放たれます。
ささやかな幸せだった、妄想からも。
それは”絶望”という名の、ひとつの死でした。
養母を殺し、自分を嵌めた同僚を殺し、
養母から「本当の父親」と聞かされていた名士を殺し、
憧れの人だったのに、自分を馬鹿にして貶めた、
人気テレビ番組の司会者も殺しますが、
たった一人、小さな体の同僚には、
「優しくしてくれたのは君だけだったよ」と語りかけ、
殺すことはしませんでした。
彼が、アーサーが、決して狂ってはいなかった証拠のように。
格差社会と現状への怒りと不満で爆発するのを、
今か今かと待ち構えていたような市民たちにとって、
アーサーは期せずして英雄となり、
”絶望”という死から、”ジョーカー”は誕生しました。
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ストーリーとしては、それほど目新しいものは無いのですが、
救いが少な過ぎて、やるせなかったです(´・ω・`)。
ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスの、
圧倒的な演技力、圧巻の表現力が、
ジョーカーを実在の人物として、存在させたように思います。
笑い方、歩き方、走り方、座り方、自己陶酔の恍惚ダンス、
ひとつひとつの表情と、その変化の仕方。
元々なのか?手の爪の短さは、神経質で深爪し過ぎたか
爪を噛む癖があることを想像させます。
同じくジョーカーを演じた「ダークナイト」のヒース・レジャーは、
ダークナイトの公開前に28歳という若さで、
薬物併用の急性中毒で亡くなっていますが、
俳優の小栗旬さんが、「あのジョーカーを生んだ、
あの演技をしたヒース・レジャーがオーバードーズで亡くなったけど、
人間って心が弱いから、だからこそ別人格になることに命を賭けて、
現実がどこだか分からなくなる瞬間があるから、
そういうこともある。
自分たち役者は、演じる為に経験をすることも必要だけど、
殺人者を演じるからといって、殺人する訳にはいかない。
自分の想像力を信じて、それで補っていくしかない。」
的なことを仰っていたことがあって、
”ジョーカー”を演じるということは、そういうことなのだなーと
思いました。
私たちが「娯楽」として観ているものは、
ギリギリの、命懸けの人々が創っているからこそ、
ずーっと心に残ったり、様々なことを感じさせ、
考えさせてくれるのだなーと。
「ジョーカー」はあくまでもオリジナル・ストーリーの
フィクションではありますが、
現代社会と重なるような格差社会や鬱屈が描かれています。
アーサーも、決してフィクションの中だけの
人物像ではないと思います。
誰しもが、ジョーカーになる可能性を、
体の中に隠し持っています。
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