2019年6月19日水曜日

悲しみの果てに自分を無化して開く感覚



銀河鉄道の夜」には「ほんとうのさいわい」という
言葉が出てくる。
カムパネルラは友のため自らは犠牲になり、
ジョバンニも「みんなの幸いのためならば
僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言う。 
こうした「自己犠牲の感覚」は、
大切な存在を失う悲しみから導かれるのかもしれない。
社会学者見田宗介さんは著書「宮沢賢治」で、
背景に「自分が生きていることが
他者の死を前提としている」という、
生きていること自体を「原罪」とする感覚があると考える。
そこで徹底して自らを無化することが、
その後の賢治の歩みとなる。 
「雨ニモマケズ」として知られる詩の断片に
「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ」という
一節がある。
それは、自分を「無にもひとしいもの」とあえて
「宣言」することだ。 
見田さんは、自分を無化することが、実は
「みえないものをみる力」につながるのだと言う。
普段は見えない小さいもの、弱いものの言葉を
聞き分ける力。
無化とは自分を抹消するようで、
実は自分という存在の「解放への通路」となる。 
そしてそれが賢治の、世界を新鮮な「奇蹟」としてとらえる感覚、
世界のまばゆいばかりの明るさを感知する
感覚につながったのではではないか。 
ジョバンニの「ほんとうのさいわい」とは何だろう。
私にはわからない。
だが、悲しみを通じて見えてくる世界の輝きというものが、
確かにあるのかもしれない。
その可能性を賢治の作品の向こうに、見つめたいと思う。
(一部抜粋)
2018年12月17日、月曜日、
半年前の京都新聞夕刊の
「いのちの文化帖 生きることばへ」
という連載で紹介されていたのは、
宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」でした。

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苦しみや悲しみといいますと、
「悪いもの」「解消しなければならないもの」
「抜け出さねばならないもの」と捉えらえる事が多いと思うのですが、

悲しみも苦しみも、薄れたり和らぐことはあっても、
ずっとずっと、抱え続けていくものなのかもしれませんね。

宮沢賢治さんも妹さんを亡くされて、
その悲しみの果てに、喪失感の果てに、
ご自身を「無化」されたのかもしれませんね。


「無化とは自分を抹消するようで、
実は自分という存在の「解放への通路」となる。」

「無化」は自分を殺すことではなく、
無理して誰かに合わせることでもなく、
自意識からの解放。

みんなに木偶の坊と呼ばれても、役立たずと罵られても、
誰にも褒めてもらえなくても、
「ああ。そうですね。」と静かに微笑んでいられる。

自分に期待することも他者に期待することもない。
ただただ体も心も「道具」として捧げる。

「道具」というと、誤解を招くかも知れませんが、
「道具」の語源は、
元来は「仏道の具」のことで、
仏道修行のための衣や鉢、錫杖(しゃくじょう)など、
六物(ろくもつ)といわれる必需品や、
密教の修法に用いる宝具などをさした。
そこから一般化し、武家の「道具(槍・刀など)」
「大工道具(鉋・金槌など)」、
芝居の「大道具」などをさすようになった。

決して自分を粗末に扱う͡事では無く、
寧ろ、「自分だけ」の欲望や自我から解放されること。

悲しみや、苦しみの果てに待っているものが
自分を「無化」する事であるなら、
果てまで行ってみる価値があるように思います。

それは、
「ほんとうのさいわい」なのかもしれませんね。

誰かを幸せにしたい、と願う気持ちと
似ているのかもしれませんね(*´▽`*)。








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