先日の紙の方の京都新聞に、永六輔さんについて書かれた本、
「伝える人、永六輔」の書評が載っていたのですが、
著者は、大ベストセラー「大往生」の担当編集者でもあり、
その後、約10年間に渡って、計9冊の本を永六輔さんと組んで
出版された人物でもあります。
書評欄に書かれていたのは、
「永六輔という怪物に取りつかれた人は数多(あまた)いるが、
それが彼の身上であり、被害者は数え切れない。
そのあたりが本書には如実に描かれている。
従って著者は被害者の一人である。
私はケラケラ笑いながら読んだ。
身につまされるからだ。」
「大天才の所業は、時に大天災を招くこともある。
とにかく勉強家で物知りの永六輔は、
のべつ嘘もついたし、作り話もうまかった。
うっかりだまされて、破滅させられることだって
あったかもしれない。
ただし人間関係はスリルがあってこそ楽しい。」
「少なくとも、永六輔が残した著作に触れた方々をはじめ、
彼に関りを持った人には特に、
「大往生」を傍らに、本書を読むことをぜひお勧めしたい。
改めて永六輔を永遠に心に記録する術(すべ)を
与えてくれるに違いない。
イチローの言葉を借りるまでもなく、
「笑って死ねる」だろう。」
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このブログで、その「嘘」は何処へ向かうのか?
という記事も過去に書かせていただいていて、
「ウソつきは泥棒の始まり」「嘘も方便」
「嘘から出た実(まこと)」「嘘八百」など、
いい意味でも悪い意味でも
「嘘」が使われている諺(ことわざ)があるように、
「ウソ」そのものが悪い訳ではないと思うんですね。
「子供にとって嘘は想像力を養う大事な訓練のひとつであり、
やがて他人の気持ちを思いやる
成熟した人間に育つために必要なもの」
という解説もされていました。
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「伝える人、永六輔」の書評が載っていたのですが、
著者は、大ベストセラー「大往生」の担当編集者でもあり、
その後、約10年間に渡って、計9冊の本を永六輔さんと組んで
出版された人物でもあります。
書評欄に書かれていたのは、
「永六輔という怪物に取りつかれた人は数多(あまた)いるが、
それが彼の身上であり、被害者は数え切れない。
そのあたりが本書には如実に描かれている。
従って著者は被害者の一人である。
私はケラケラ笑いながら読んだ。
身につまされるからだ。」
「大天才の所業は、時に大天災を招くこともある。
とにかく勉強家で物知りの永六輔は、
のべつ嘘もついたし、作り話もうまかった。
うっかりだまされて、破滅させられることだって
あったかもしれない。
ただし人間関係はスリルがあってこそ楽しい。」
「少なくとも、永六輔が残した著作に触れた方々をはじめ、
彼に関りを持った人には特に、
「大往生」を傍らに、本書を読むことをぜひお勧めしたい。
改めて永六輔を永遠に心に記録する術(すべ)を
与えてくれるに違いない。
イチローの言葉を借りるまでもなく、
「笑って死ねる」だろう。」
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このブログで、その「嘘」は何処へ向かうのか?
という記事も過去に書かせていただいていて、
「ウソつきは泥棒の始まり」「嘘も方便」
「嘘から出た実(まこと)」「嘘八百」など、
いい意味でも悪い意味でも
「嘘」が使われている諺(ことわざ)があるように、
「ウソ」そのものが悪い訳ではないと思うんですね。
「子供にとって嘘は想像力を養う大事な訓練のひとつであり、
やがて他人の気持ちを思いやる
成熟した人間に育つために必要なもの」
という解説もされていました。
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ここのところ、「うそ」というキーワードが、
ちょこちょこと入ってくるようになって、
少し考えてみたくなって。
横領や詐欺など、刑事事件に発展するような嘘は、
与り知らぬ事ですので、ここでは論外として。
子供さんへの教育の一環としては、
「ウソをついてはいけません」と教えることが
主流だと思うのですが、
私が小さい頃、一部の大人たちは、
「ウソはついてもええど。何かあったら
ウソをついて切り抜けなあかんで。」と
教えてくれはりました(笑)。
”自分の身や、大切な人たちの身に危害が及ぶことを
想定できた場合は”というような意味で
言うてくれはったように思います。
うん。書いていて思い返しますと、
そう教えてくれはった大人たちは、
修羅場を潜り抜けて来はった強者(つわもの)たちでしたね(笑)。
そもそも「ウソ」ってなんだ?ってつらつらと
思考を巡らせてみますと、
「事実」ではないってこと?反対語は「本当」。
「嘘」という漢字は、口に虚しい書きますね。
虚は虎の頭(大きいの意味)と
丘、荒れ果てた都の跡、または墓地の意味。
吹く、ゆっくり息を吐きだす、
声を出さずに泣く、という意味もありますね。
人様を陥れたり、傷つける為の嘘ではなく、
「子供にとって嘘は想像力を養う大事な訓練のひとつであり、
やがて他人の気持ちを思いやる
成熟した人間に育つために必要なもの」
やがて他人の気持ちを思いやる
成熟した人間に育つために必要なもの」
という説にあるように、誰かを幸せな気持ちに出来る嘘って、
人間にとって、とても大切なのではないかなーと思います。
お芝居や小説や映画やドラマ、手品なんかも
事実では無いという意味では「ウソ」ですが、
現実の事実ばかりが羅列された世界なんて、
なんの面白味も無いように思います。
少なくとも個人的には、そんな世界には居たくないですね(笑)。
そもそも、「本当のこと」や「事実」でさえ、
見る人の目線や角度で、全く変わってしまうし、
ある人にとっての事実も、ある人にとっては嘘になる、
なんて事は、当たり前にあることですよね。
先日、テレビ番組にIQ188の青年が出演されていたのですが、
小さい頃から見えている世界も感じている事も
他の子供たちとは全く違ったから、
変人扱いされていたって仰ってて、
同じ景色を見ていても、見えているものは全く違うって
私も普通にある事だと思っていたのですが、
共感を得られる事はあまり無くて(笑)。
「事実」や「本当」が、”共通認識”を意味するなら、
そんなものは事実でも本当でも無いように思います。
その人だけの「本当」や「事実」もあったり、
「本当」とされる共通認識が面白くないものなら、
想像の翼を広げて、その「うそ」で
「つまらない本当」を凌駕すればいい。
人様やご自身を陥れたり、傷つけたりしないウソなら、
それは人生を楽しむ為の、軽やかに生きる為の、
精神に許された自由。
「勇気が人の心を変える」という記事にも書かせていただいた
「グリーンブック」のトニーのように、
「デタラメを言うのが得意」で、
皆が、そのデタラメに騙されているのは薄っすらと自覚していても、
クスッと笑えたり、
デタラメに命を救われたり。
ウソをつくにもある程度の知識が必要で、
その知識を編集して、事実を織り交ぜ、説得力を持たせる、
というのは、なかなか頭が良くないと
難しいことではないかなー?と思います。
そして、そのウソがバレた時の態度で、
その人の度量や心根なんかも、
ありありと見えて来るように思います。
永六輔さんもその知識量と説得力が在ったからこそ、
みんなが騙されて、そのスリルを楽しみ、
そして率直で寛大な永六輔さんの人間性があったからこそ、
みんなが騙されたことにケラケラと笑えるのだと思います。
結局は「その人」に帰結するのでしょうかね(*´▽`*)。
この人になら、騙されてもいいや。
この人の嘘になら、乗っかって楽しもう。
そう思わせてくれる人に出逢えるって、
もしかしたら、とても幸運な事なのかもしれませんね。
この人になら、騙されてもいいや。
この人の嘘になら、乗っかって楽しもう。
そう思わせてくれる人に出逢えるって、
もしかしたら、とても幸運な事なのかもしれませんね。
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