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2019年7月27日土曜日

石橋凌という人。ARBというバンド。


いつだって、音楽は助けてくれた。
迷った時。悲しかった時。寂しかった時。
辛かった時。悔しかった時。
自分を許せなかった時。
暗闇の中で、一筋の光りさえ見えなかった時。

いつだって人生を併走してくれた。
そんな曲が、沢山あるという幸福。

そんな中でも、ARBというバンド、
石橋凌という人は、いつも私を挑発し続けてくれています。

「一緒にやろうよ」ではなく、
「俺はやる。おまえはどうなんだい?」と
ずっと問い続けてくれています。

新宿LOFT
石橋凌さんが何度もテレビやラジオで
話され続けてきたことですが、
ARBというバンドは、そもそもはアイドル的なバンドとして
売り出される予定だった為、
「政治的な事や社会的な事は一切、歌うな」と
禁じられたそうです。ラブソングを歌えと。

そういう歌を歌いたくて、海外みたいに日本でも
政治や社会を歌うバンドがお茶の間に入っていける、
そういう世界を目指していたのに。

会社の言うことを聞いて、ラブソングばかり歌えば、
それなりに売り出してもらえて、
それなりにお茶の間にも入っていけたでしょう。

でも自分の想いを捻じ曲げることはしなかった。

あっさりと会社を辞めて、ドサ回りの生活が始まり、
京都にも、磔磔や拾得というライブハウスを始め、
学園祭にも来られていて、よく聴きに行きました♪

新宿LOFT
「狂いたくても狂えない奴。笑いたくても笑えない奴。
泣きたくても泣けない奴。
総ての、ロックンロール・キッズに贈ります。」

噛みつくように、叫ぶように、吼えるように、
覚醒しきった目で歌う石橋凌さんは、
今思うと、当時はめちゃめちゃ色んなものと
闘ったはったんですよね。
自分との闘いも含めて。

それは、12~13歳くらいのパンク少女だった私と、
対象は違っても、同じだったのかも知れません。
多くのロックンロール・キッズ、パンク・キッズも。

得体の知れない怒りを抱えて。

新宿LOFT
普段はヘラヘラ教の教祖のように
ヘラヘラしている私ですが(笑)
何か事が起きると、反骨心がムクムクと湧き上がり、
「ああ。私の根っこは、
あのパンク少女の頃のままなのだなぁ。」
と、いつも思い知らされます(///∇//)。

新宿LOFT
最近では俳優さんとしての石橋凌さんしか
ご存知ない方も多く、
ARBも「伝説のバンド」になってしまいましたが、

今も色褪せることなく、問い掛け続けてくれています。
「俺はやる。おまえはどうなんだい?」

磔磔
石橋凌さんの書かれる歌詞、歌う声には、
言霊(ことだま)があると、よく言われていました。

歌詞に書かれた犯罪や社会情勢に、酷似した現実が
後から追い付いてくるからです。

今になりますと、「言霊がある」と言われたことも
よく解ります。

それは「言葉が放たれている」から。

楽屋
古ぼけた写真ですが、昔はカメラマンさんが
写真をくださったりって事も、よくあったのです。
私たちが子供だったからかも知れませんが(笑)。

田中一郎

石橋凌

上の2枚も、ホールでのコンサートの時に、
たぶんプロのカメラマンさんに
いただいた写真。

新宿LOFT
バンドから役者さん、そしてソロと、
転がり続けながら変化し続ける石橋凌さんは、
「表現者」を体現し続けはるのだろうなと
心強く、思います(*´▽`*)。

ARBを脱退された時、一部の方からは「裏切者」と
罵倒されはりましたが、
罵倒した方々も、悲しくて寂しかっただけなのでしょうね。
そのくらい、強い愛情があったというだけのこと。

大阪南港
大阪南港
暑かったなー。熱かった(笑)。

大阪南港
あ。私は当時も、写真を撮るのも撮られるのも
苦手だったので、友達が撮ってくれていました。

大阪南港
小学生の頃に、飛び抜けて大人っぽくて落ち着いた
同級生の男の子がいたのですが、
20代の時に、ARBのコンサートで、
その子とお互いに「あ!」ってなった時(笑)、
「ああ。やっぱりそういう子だったんだな。」と
思いました(笑)。

原田芳雄 田中一郎
松田優作さんや原田芳雄さんとも親交を深めた
石橋凌さんなので、ライブにも登場(笑)。

少し前に写真を整理していて、
そういえばARBや石橋凌さんのことを
ガッツリ書いたことが無かったなーと思って、
書きたかったのです(≧▽≦)。

「変人」という生き方にも書かせていただいた、
梅原猛さんもそうでしたが、

ARBというバンドと石橋凌さんも
確実に、私を作ってくださいました。

そんなリスペクトと愛を込めて、
書き残したかったのかも知れません。




じゅごんろ~どnote

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2019年7月13日土曜日

茂山忠三郎さん狂言教室「和らいのいろは」


に行ってきましたー(ノ´▽`)ノ


場所は京都東急ホテルさん♪

茂山忠三郎さんによりますと、
ホテル内の中華のお店が格別に美味しいそうです(≧▽≦)。

先月、紙の方の京都新聞
狂言教室の告知が掲載されていて、
ファミリーも行きたいと申しましたので
早速、往復はがきで申し込みましたところ、

1000名以上の申し込みがあり、
抽選だったそうなのですが、
みごと当選を果たしました(笑)。

茂山忠三郎さんの軽妙な語りで、
狂言の歴史など、沢山のお話を聞く事ができましたよ♪

「ぶす」の語源である「附子(ぶす)」と
山伏さんと神職さんの霊能力を競う狂言も
上演されました。

狂言が陰陽道ととても深い関係があること、
能楽・狂言が語源となった言葉が沢山あること等々、
興味深いお話ばかりでした。

お能では舞台で死人が出るのですが、
狂言の舞台では一切、死人が出ない事。
これが、「日本の笑い」の原点なのではないか?
と仰っていたのも印象深かったです。

そして、人間は生きていれば辛いこと、悲しいことが
沢山ありますが、
辛い時、悲しい時こそ、笑っていただきたいのですと
仰っていました。

もちろん、とても難しいことではあるのですが、
そうやって「陰陽」のバランスを取る訳ですね。
陰に引き込まれないように。

「陰にこもる」というのは不平不満が外に出ず、
自分の内側にこもることですが、
これをすると「身体に障る」と言われるくらい
あまり良くないこととされています。

かといって、不平不満を撒き散らすのも
人様に陰を押し付けることになりますので、

そうではなくて、「笑いに変換する」ということが
人間の知恵なのだなぁと思いました。

陰を陽に変換することで、
どちらか片方ではなく、両立するんですね(*´▽`*)。

そして、狂言の「笑い方」も教わってきました(笑)。
「はあーーーはっはっはっはっはっはっはっはっ!」という
あの笑いです(≧▽≦)。

もうこれを教えていただいて、
みんなで「はっはっはっは!」と言っている間、
可笑しくて可笑しくてツボに入ってしまって(笑)
ずーっと一人で、生きた笑い袋になっていました(≧▽≦)。

「笑う」ということは、
体の免疫力を上げたり、精神をリラックスさせたりと、
沢山の恩恵がありますね。

逆に私的な怒りや憎しみは、体も精神も蝕んでいく。

自分の感情というものが、
如何に自分に大きな影響を与えているのか?
と考えますと、

やっぱり出来るだけ、笑っていたいですよね。
私の様に笑い過ぎますと、
変人認定されますが(///∇//)。

辛い時、悲しい時、
大きな声で笑えなくても、
「ふふっ」って( *´艸`)。

茂山忠三郎さんの語りは、
四方八方どころか、
二十四方くらいへの気配りがされていましたが(笑)

どこにも無理を感じることは無く、
幼い頃から狂言の世界で鍛えられて
身に付けてこられた自然な心配りなのだろうなぁと
思いました(*´▽`*)。

舞台も楽しくて、
大満足の狂言教室でした(≧▽≦)。









じゅごんろ~どnote

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2019年5月19日日曜日

夢とうつつに生きる


「京都に暮らすということは、
夢とうつつ卍巴(まんじともえ)に入り乱れる
花あらしの中を、手さぐりで潜水するようなものだ。」

「夢とうつつの区別がつかない生を生きるということそのものが、
人生なのである、このみやこでは。」

京都には、源氏物語に登場する、
夕顔(ゆうがお)」という架空の女性のお墓があったり、
「ユウガオヒメの関係者のお墓らしい」という
石造りの五輪の塔をお世話して、
地蔵盆には毎年、お坊さんにその五輪の塔の前でお経をあげてもらい、
供養をしているという男性がいらっしゃったり。

「これが京都なのだろう。現実と物語の虚構が入り交じって、
もうひとつの現実をつくりあげている。
人々はどこまでが現実でどこからが虚構か、という区別に
おどろくほど無頓着である。
物語や歌の世界(夢と幻の世界)が染み込んでいない世界などは、
現実でも日常でもないとさえ思っているふしがある。」

「まさに能「半蔀(はじとみ)」のなかで、
夕顔の亡霊が雲林院の僧の前に現れて、
夢幻のごとく振る舞い、朝には消えてゆく、
その能そのものが、京のまちでは日常として行われているのだと
いってよい。

世阿弥のいわゆる夢幻能は、京都がつくったフィクションなのではなく、
京都の生そのものを描写したノンフィクションなのである。

京都に暮らすというのは、そういうことなのだろう。
東京に暮らすということとの決定的な違いが、ここにある。

表面的な現実、数字のデータによって把握される現実、
想像力の最小限化の世界・・・東京の生はそういう性質を持っている。

そして日本全国をその性質で埋め尽くそうとしている。
だが東京の生命観を無化しうる対極が、京都にはある。」

ーーーーーーーーーーーーーーー

少し前の紙の方の京都新聞に掲載されていた
京都大学教授、小倉紀蔵さんの”現代のことば”です(*´▽`*)。

京都に生まれ育ったものでは気付かないというか、
それを「当たり前」として受け入れてきたので、
こうやって言葉にしていただくことで、
やっとこさ客観視できる事も多いのです。

「京都に暮らすということは、
夢とうつつが卍巴(まんじともえ)に入り乱れる
花あらしの中を、手さぐりで潜水するようなものだ。」

うーむ。花あらしの中を、手探りで潜水するとは。
京都に暮らすということは、それほどに複雑怪奇に
見える方もいらっしゃるのですね(≧▽≦)。

風習みたいなものは、目に見えない世界があってこそ、
成り立っているような事って多いですもんね。

今気付いたのですが(笑)、
風習って、風に習うって書くんですね(*´▽`*)。
そよ風や強風、南風や北風。
色んな風が吹きますが、その風に習うってことなのでしょうかねー?
何度も何度も吹かれながら。

「人々はどこまでが現実でどこからが虚構か、という区別に
おどろくほど無頓着である。
物語や歌の世界(夢と幻の世界)が染み込んでいない世界などは、
現実でも日常でもないとさえ思っているふしがある。」

ええ。左様でございますとも(≧▽≦)。

つまらない事実よりも面白い嘘を」という
記事も書かせていただきました(笑)。

表面上の共通認識のみを現実や事実というなら、
それはとても、ちっぽけなものになってしまうと思うんですね。

データや数字や言葉や視覚情報では表せないものの方が、
遥かに多くて大きいからです。
心や体で感じることって。

夢かうつつか幻か。
なんだっていいと思うんですね(*´▽`*)。

その人の信じるものごとこそが、
その人にとっての世界。
こんな事を書くのは、京都に住んでいるからかも
知れませんが(≧▽≦)。

今日は日曜美術館エッシャーの特集が放送されたのですが、
だまし絵は、見る角度によって全く違うものが
見えたりするんですよね。

人間が見ている世界も、だまし絵のように
その人の見ている角度のようなものによって
全く違う世界が見えているのではないかなー?と
思うのです。

だまし絵の世界に入り込んでしまったら、
同じところをグルグル回って出られなくなるし(≧▽≦)。

夢とうつつの区別がつかない生を生きるということは、
違う角度で世界を見ることなのかも
しれませんね(*´▽`*)。






じゅごんろ~どnote

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2019年5月18日土曜日

荒凡婦(あらぼんふ)で行こう


なんですって?
もう5月の18日ですって?

(@ ̄□ ̄@;)!!

光陰が矢の如し過ぎて、
もう暦の意味も分からなくなってきた今日この頃でございます(笑)。
ひと月毎のカレンダーが、
まるで日めくりカレンダーのようで(≧▽≦)。

月日の過ぎる速さに圧倒されるものの、
周りからは相変わらず、
「マイペース過ぎる」と言われています(///∇//)。

なんなんでしょうか?自分では焦っているつもりもあるのですが、
人様の焦り方と、私の焦り方は違うのでしょうか?(≧▽≦)

そんなこんなな日々ですが?
昨日の紙の方の京都新聞に、女優さんである冨士真奈美さんの
インタビュー記事が掲載されていました。

冨士真奈美さんといえば、お若い頃の写真を拝見しますと、
それはもう、日本人離れしたゴージャスで品のあるお顔立ちで、
惚れ惚れとするような美しい女優さんです(≧▽≦)。

現在も華やかで美しいお顔立ちに変わりはないのですが、
バラエティ番組などでお見受けする天真爛漫な言動は
気取りの欠片も無く、
女優さんらしい、美しい強さを感じます(*´▽`*)。

そんな冨士真奈美さんがインタビューで、
「荒凡婦(あらぼんふ)で生きようと思っているんです」と
仰っていました。

俳人の金子兜太(かねことうた)さんに教わった小林一茶の言葉が
「荒凡夫」だそうで、
女性ですので、「夫」を「婦」と置き換えて。

「荒凡婦」の意味は、
「いつも自由で魂はさすらっていながら
平凡に暮らす」こと。

ご結婚をされていたのですが、
「エッセーに書いていた幸せな結婚生活なんて
うそばっかり。私は(夫の)顔色を見て、
合わせちゃう性格なのね。
それはいけないの。
自由というのが人間には本当に大事」と。

一度、不自由を経験されたからこそ、
自由の大切さを実感されての
「荒凡婦」なのだなーと思いました。

ご結婚をされて10年間、女優さんを休業されていたので、
「平凡に暮らす」ことの大切さも。

あらぼんふ。
なんだか言葉の音も、飄々として、自由で、
いいなぁって思いました(*´▽`*)。

魂は自由。
なんぴとにも拘束されず。










じゅごんろ~どnote

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2019年4月15日月曜日

映画「運び屋」見てきました♪(※ネタばれ注意)


先日、クリント・イーストウッド監督・主演の
「運び屋」を見てきました(*´▽`*)。

イーストウッドの監督作品は、
いつも心に引っ掛かりを残してくれて、
何かの折に、ふと、考える時間を与えてくれるのです。

映画を映画館で観た時間だけではなく、
見終えた後の人生にも影響を与え続けてくれる映画って
やっぱりスゴイなーと思うのです。

さて。
「運び屋」は、実際に麻薬の運び屋として10年間走り続けた、
90歳近い男性にインスピレーションを得て作られたそうです。

90歳近い年齢を迎えながら、何の為に犯罪に関わり、
何の為に大金を必要としたのか?
もしくは必要としなかったのか?

運び屋のアールを演じた88歳のイーストウッドは、
相変わらず骨太なガッシリとした体形で、
筋肉が落ちたからこそ、余計にその骨の太さが際立っていましたね。

アールは「ディリリー」と呼ばれる、
1日だけ開花する百合の花を育てていて、
コンテストでも優勝するくらい、その花を特別に愛し、
率直で機知に富んだ物言いや仕事熱心さで、
周りの人たちからも愛されていました。

家族以外からは。

実際には家計は火の車で、自宅は差し押さえられ、
家族の記念日や行事にも、仕事や外での付き合いを優先してきた結果、
娘さんは12年半も口をきいてはくれないような
家族関係となってしまっていました。

なんとか母とおじいちゃんを繋ごうとする心優しい孫娘の為に、
「車を運転するだけの仕事」をアールは引き受けます。
麻薬カルテルの運び屋の仕事だとも知らずに。

「危ない橋を渡るんだな」と最初に気付いた時は、
「やっちまったな」という表情をしたアールでしたが(笑)
朝鮮戦争の退役軍人でもあるアールは、徐々に腹を括って、
大金を得られる”運び屋”をエンジョイし始めます(笑)。
”ちょっとしたドライブ。ちょっとした旅。”のように。

警察が近づいてきても、持ち前の機転で窮地を脱し、
カルテルの人間たちからも、その度胸と運転の腕を信用され、
くだけた会話を交わせるようになったり、
麻薬カルテルのボスにも気に入られたり。

麻薬を運んで得られた大金で、家族や地域の人たちの望みを
叶えることが出来たアールでしたが、
運び屋の”見張り”として行動を共にして、
微かな「情」も通っていた若者に語ります。

「ボスはお前たちの命なんか何とも思ってやしない。
この仕事を辞めて、自分の好きなことをするんだ。」

アールが言った通り、カルテルの仲間内にボスは殺され、
後釜となった新たなボスは、アールの「自由なドライブ」を
許しませんでした。

そんな時、奥さんの病気が発覚し、
余命幾許もない事を孫娘から知らされたアールは
運び屋の仕事を中断し、
家で最期の時を待つ奥さんに付き添います。

散々、蔑ろにされてきたのに、奥さんは
「傍にいてくれて、とても嬉しい」と(´;ω;`)。

12年半、口をきいてくれなかった娘さんに、
仕事や外での付き合いばかり優先してきた事に対して、
「すべて、しくじった。すべて間違ってた。」と告白するアール。
娘さんは優しく言います。
「遅咲きなだけよ。」

奥さんの最後の1週間を共に過ごし、
家族とも和解できたアールでしたが、
逮捕の時は来てしまいます。

裁判では、高齢であることや、騙されていたからと、
無罪を主張しようとする弁護士さんを遮り、
「有罪だ」とキッパリと主張するアール。

娘さんたち家族は、「居場所が分かるだけましよね。」と、
泣き笑いしながら有罪判決を受け入れます。

刑務所でもお花を育てるアール。



「成功ってなんだ?」という記事にも書かせていただきましたが、
生きているうちは、全てが「経過」でしかなく、
「経験」でしかないと思うんですね。
成功も失敗もなく、正解も間違いもなく。

「しくじった」と思ったとしても、
その「しくじり」から何かに気付いたり、何かを得たり。
間違った事をしたからこそ、人に伝えられるものが在ったり。
しくじり先生」というテレビ番組もありますよね(笑)。

最後の1週間が、アールと奥様にとって、
とても幸せな時間であったのなら、
「すべて、しくじった」訳ではないですよね(*´▽`*)。

そう。遅咲きなだけ。

ハラハラドキドキのシーンもあり、
年老いて尚、カッコいいイーストウッドを堪能出来て
大満足の映画でした(∩´∀`)∩。


2019年3月26日火曜日

ヨシダナギさん写真展「HEROES2019」行ってきました♪


野暮用の待ち時間が出来たので、

はっ!(@ ̄□ ̄@;)!!
ヨシダナギさんの写真展あるやん!
と思い出せたので、行ってきましたーっо(ж>▽<)y ☆


ヨシダナギさんを初めて知ったのは、
松本人志さんの「クレイジー・ジャーニー」という、
その名の通り、常人から見れば”狂った旅”をする方々が
紹介されるテレビ番組でした。

現地の部族の方々と同じものを着て、
同じお化粧を施し、同じものを食べて、
仲良くなってから写真を撮らはるというスタイル。

小さい頃に、「大人になったらアフリカンな外見になれる」と
信じたはったくらい、
アフリカンのカッコ良さに魅せられたはったそうです♪

写真展の会場は撮影OK!ネット投稿もOK!という
寛大さ。

さすが、ゆるふわだけど芯が強い、
ヨシダナギさん(≧▽≦)。

隙間時間だったので駆け足で見ましたが
圧倒的なカッコ良さでした(≧▽≦)。




言葉は要らないですね。



カッコいい~~~о(ж>▽<)y ☆





グッズ販売をされているコーナーに
ヨシダナギさん語録みたいなのが書かれていて、

「夢がなくてよかった」

「できないことは、しない方がいい。
できる人にしてもらった方がいい。」

「友達は少なくていい。
傍にいてくれる人が一人いればいい。」

もうシンパシーしか、感じませんでした(笑)。

今もご自身のことを、
「写真家だとは思っていない」って仰っていましたね。
「ただ、少数民族のカッコよさを伝えたいだけです」と。

この先の事も、あまり考えていらっしゃらない様子。
もうシンパシーしか以下同文(≧▽≦)。

4月2日まで開催されています。

是非是非、足を運んでみてください(*´▽`*)。




2019年2月8日金曜日

「変人」という生き方



先月、哲学者の梅原猛さんが亡くなられました。
子供の頃から梅原さんの本は沢山読ませていただいて、
京都新聞での連載も、いつもとても楽しみでした。

”世論”と呼ばれるものとは、どこか違う視点を持たれていて、
私には深く頷けるものであったり、
とてもシンパシーを感じる事が多かったのです。

NHKで「独創とは勇気である」という追悼番組が放送されましたが、
奇人・変人と呼ばれながら、様々な仮説を立て、検証し、
時に大胆な仮説は大空振りする事もありましたが、

ご自身の仮説が間違っていた時には、
「間違った仮説を本にしてしまったことを
大変恥ずかしく思います」と率直に書かれた本を、
新たに出版されるという「誠実」に
「ああ。これが梅原さんやなぁ。」と
胸を打たれました(´;ω;`)。
そんな事をされる方を、私は他に知りません。

好奇心の塊だった梅原さんの様々な論説文は、
いつも専門家の方々には批判されたり無視されたり、
議論の火種になったりもしましたが、
その姿勢は、「専門家だけのもの」を、
「一般の人々にも知らしめる」機会でもありました。

*~*~*~*~*~*~*~*~

先日の京都新聞では、同じく哲学者の鷲田清一さんが
梅原さんを偲んで書かれていたのですが、

ある日、後輩が、自分が抱え込んでいる不安について
梅原さんに聞いてもらいに自宅を訪れた際、
親身に頷き、助言もした梅原さんは、
その間も大好きな大相撲のテレビ中継を見て、
更に原稿も書き続けていらっしゃったそうです。

鷲田さんは書かれます。
「これは、「したいこと」「しなければならないこと」
「してあげたいこと」のどれもおろそかにしないという、
梅原さんの矜持をこそ物語るものではないかと。」

「こういう懐の深さは、梅原さんの出自と無関係ではない。
婚外子として生まれ、1歳で母を喪い、
伯父夫婦に預けられて育った梅原さんは、
≪欠乏≫に疼く人でもあった。
だから幼くして親を喪う、世の辱めを受ける、
あるいは身を棄てる、人を殺めかける、
そんな深手を負った人への共感は止めを知らなかった。」

「「私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない」という
パスカルの言葉を地でゆくように。」

(私は人間をほめると決めた人たちも、
人間を非難すると決めた人たちも、
気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく非難する。
私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない。
「パンセ」より)

*~*~*~*~*~*~*~*~

「哲学」は自分自身に対して、
人間とは何か?生きるとは何か?という
根源的な問い掛けをし続ける事でもあると思います。
目に見えない、大きな何かを追い続ける事。

それは学者さんだけのものではなく、
「人」である全ての人のもの。
生きとし生けるもの、全てのもの。

梅原さんも含め、京都には「奇人変人」と呼ばれながら
愛される方々が沢山いらっしゃいます。
先人たちが作ってきてくださった、そんな道のお蔭で、
私みたいな変人も堂々と、「変人」を名乗れるのだと
思います。

「独創とは勇気である」


梅原猛さんが亡くなられた1月14日の空です。
ゾウのような雲が浮かんでいたり


鳩まみれの雲があったり(笑)

美しい日でしたね(*´▽`*)。








じゅごんろ~どnote

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2018年10月9日火曜日

下ネタ50%の品性


私ごときが「品性」について書かせていただくのは
ほんとに僭越(せんえつ)なのですが💦

どうしても「品性」や「品格」というものを
感じてしまう方がいらっしゃるのです。

普段は下ネタ50%のtweetを呟かれる方なのに(笑)
何故?この方に品性を感じてしまうのか?

少し前に紙の方の京都新聞
評論家の川本三郎さんが「品性と品行」という
コラムを書かれていたのを思い出して。

そのコラムで小津安二郎監督
「小早川家の秋」という映画の中で
原節子さんが仰ったセリフが引用されていました。

「品性の悪い人はごめんだわ。
品行はなおせても品性はなおらないもの」

ちょっと前に秘書を罵倒した女性議員さんが
落選して、不倫疑惑を報じられた女性議員さんは
当選したことにも触れられていて、
「前者は品性が疑われたのに対し、
後者は品行の問題だったから寛大に見る人が
多かったのだろう」と書かれていました。

お金に関しては、
「「ケチ」は生き方、品行だから問題はないだろうが、
「せこい」は品性に関わるから嫌われる。」

脚本家の山田太一さんのエッセイに書かれていた
渥美清さんの言葉も引用されていて、
「うまいもんがあると聞くと
捜してでも食いに行くなんて、
なんか、品がないよなぁ」

「「地味は粋の行きどまり」と言う。
目立たない、出しゃばらない、
大言壮語(たいげんそうご)しない。
品性とは結局、恥じらいを知っているかどうかだろう。」

電車の中で見かけた光景にも触れられていて、
シルバーシートに座った若い女性たちが
ものを食べて騒いでいても
渋い顔をしながらも誰も何も言わなかったのに、
工事現場の帰りらしい二人のおじさんが注意をすると

女性たちは舌打ちをして(!)
「こんな汚いおやじに言われたくない」と
ふてくされたそうですが(!)

「俺たちはガラは悪いかもしれないが、
おまえたちみたいに行儀は悪くない。」
と見事な切り返しをされたそうです(≧▽≦)。


コラムを思い出して、
何故?ツイ友さんであるその方に
「品性」を感じるのか?と考えてみますと

下ネタ50%なのですが(笑)
人様の悪口を書いたり、人様を見下げたりしない。
愚痴や不平不満も書かれない。
車からポイ捨てする人には厳しい。
奥様とお子様に対する愛情が、
アピールされている訳でも無いのに滲み出ている。

ご自身は食べない高いお菓子も
お子さんには買って差し上げたはる。
何でも食べはる。

tweetも基本、笑いを重視されているように感じる。
お説教めいたことは書かれないのに
時に核心を突くtweetをされる。
(すぐに削除されているようですが)

そして思い返せば
回転するお寿司を描いてみた件
閲覧注意 日野日出志さんの漫画が大好きだ
どちらのブログも、このツイ友さんの呟きから
書かせていただいたブログなんですね。

どんだけフォーカスしてんねん!
って話ですが(≧▽≦)。

なんというか「武士は食わねど高楊枝」的な
大人の男性の品性とか品格を見てしまうんですね。

今どき、何でもかんでもSNSに垂れ流すのが当たり前で
「やせ我慢」なんて流行らないのかも知れませんが、

やせ我慢をご自身の中で消化できる
度量のある方なのだなーと。

まさしく「武士」を見てしまうんですね。
無意識に身に付けて来られたであろう
美学や生き方。
とても美しい魂を感じてしまうんですね。

昔の武士が下ネタを言っていたかは謎ですが(笑)
現代の武士は下ネタと笑いを呟きながら
地味に、粋に、男の背中を見せたはるのだなーと。

そこに私は品性や品格を感じるのだなーと
思いました(*´▽`*)。

川本三郎さんのコラムの最後に書かれていたのは
吉田茂さんの息子さんで
作家の吉田健一さんの言葉で

「戦争に反対する唯一の手段は
各自の生活を美しくして、
それに執着することである」

そして川本三郎さんの言葉として
「美しさとは品性であることは
いうまでもない。」



マリアビートルの巾着





じゅごんろ~どnote

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2018年9月17日月曜日

閲覧注意 日野日出志さんの漫画が大好きだ


ホラーや怖いものが苦手な方、
繊細な方には今回はごめんなさい💦
また次回のブログでよろしくお願い致します。


先日、ツイ友さんのtweetから
漫画家の日野日出志さんがTwitterをされている事を知って
興奮しました(≧▽≦)。
子供の頃から大好きだったのです。

日野日出志さんの漫画、と申しますと
トラウマになる漫画」とか(笑)
グロい(グロテスク)」と言われる画風や
ストーリー展開が特徴なのですが

そのストーリーの奥に潜む(ひそむ)
人間の哀しさや愚かさ、
絶望の中に見る希望、
狂気にも似た愛情、
残虐な伏線から辿り着くカタルシスなどなど

とてもとても奥深い漫画なのです。

人間って、奪い合ったり殺し合ったり
傷つけあったりと、
元々はとてもグロテスクで醜い生き物だと思うのです。

それを知性や美意識や愛情によって
社会性を学び、身につけ、
「現代人」という衣(ころも)を纏って(まとって)
生きていると思うんですね。

日野日出志さんの漫画は、
その衣を、いとも簡単に剥ぎ取ってしまうのです。

原始の想い、原始の行為、原始の叫びを
思い起こさせるような。

醜い絵に、残虐な展開。
なのに、その奥に流れる何ともシンプルで
美しい魂の躍動(やくどう)。

人間のグロテスクな面から
目を背けるどころか白日(はくじつ)の下に曝け(さらけ)出し、
読み手に突きつける。

「さあ。おまえはどうするんだい?」
「自分だけは綺麗なつもりかい?」
そう問いかけて来るように。

暗澹(あんたん)たる気分になりながらも
自分の醜さと向き合い、自分に問い続けるのです。
「私ならどうする?」と。



漫画でも小説でも映画でもそうなのですが、
ホラーと呼ばれるものや怖いとされるもので
人間が深く描かれている作品が好きなのは、
人間(自分)の弱さや危うさ、醜さから目を逸らしていないからです。

そこから目を逸らした途端、
「あちら側」に行ってしまうことは
とても簡単。

そして「こちら側」に戻ることは
とても困難。

自分の立っている場所を確認する為にも
日野日出志さんの漫画を読むのかも知れません。











じゅごんろ~どnote

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2018年7月14日土曜日

ARB 踊り子ルシア


また今日もうんざりするような朝陽が昇り
うんざりするような一日が始まる

うんざりするような小さな町で
うんざりするような同じ顔に囲まれながら

あまり口をきかない親父と今日も同じ工場へと
引きずるような足取りで歩く

機械で油まみれになった黒い指で昼めしを詰め込み
その後も何度も何度も
うんざりするような同じ仕事を繰り返す

土曜になればマギーがうちにやって来る
マギーはいい子さ
そばかすだらけの顔も腹からはみ出た肉も

俺の顔色を窺う仕草に時に苛立つが
それもまぁ可愛いもんさ

うんざりする町に似合いの俺たちだ
そう思っていた

この町に
うんざりするこの町に

真っ赤なバラが やって来るまでは



彼女の名前はルシア

白く透き通るような肌に
光り輝くような黒い瞳と黒い髪

長い手脚を持て余すように
見せつけるように ゆっくりと歩く

その夜から 寂れた町の寂れた小屋が
天国に変わっちまったのさ

ルシアの踊りに どいつもこいつも釘付けで
トニーもビリーも「ルシアが俺を見ていた」と言い張るが
そんなことがあるもんか

ルシアの黒い瞳は
間違いなく俺に注がれていたさ

土曜も日曜もマギーはうちに来たが会う気にもなれず
親父までもがおふくろの小言さえ耳に入らない様子で
うわの空さ

うんざりするような町も人も
生まれ変わっちまったのさ



だけど時は止められない
ルシアとも別れの時はやって来た
今度の土曜の夜が最後のダンス

次の町へと旅立つルシア

今夜だけでいい
月の下で いつもの踊りを
いつもの笑顔を
俺だけに

プリーズ ダンス フォーミー
プリーズ スマイル フォーミー

今夜だけでいい 今夜だけで
俺だけに

うんざりする毎日に戻っちまう前に
おまえの事を思い出せるように

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最近、男の子が切実に女性を求める気持ちを聞く機会が
何度か続いて、

ARBの「踊り子ルシア」が
ここ数週間、頭の中でずーっと流れていました。

歌詞から妄想が止まらなくて(笑)
書きました(●´ω`●)ゞ

娯楽の無い田舎町に住む青年が
淡々と生きながらも
覇気のない毎日にうんざりしていた心に
咲いた一輪の赤いバラ。

女性からしてみれば荒っぽい感情かもしれないけれど、
そこには「純粋な欲望」とも呼べる切実さを感じました。

赤いバラを愛でる術も、大切にする術も知らない。
だけど愛したいし大切にしたいという切実な欲望。

純粋だなーと思いましたよ。

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金平糖袋(朝焼け)







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2018年7月1日日曜日

髪を贈る


お一日の本日も全国的に暑かったようですね💦
京都も順調に35度前後を記録しております(笑)。


暑気払いに錦市場の大國屋さんで買ってきた鰻をいただきましたよ♪
「暑気払い」というと冷たい食べものを思い浮かべられると思いますが
「元気の出るものをいただいて暑さを乗り切る」
という意味もありますね(*´▽`*)。

関西では鰻のことを「まむし」とも呼びます。
ご飯とご飯の間にも鰻を挟んであるので、
「鰻をまぶして食べる」ことから「まむし」と
呼ばれるようになったという説もありますが

小さい頃は鰻が苦手で
「蛇のマムシに似てるから”まむし”なんやわ」
って思っていました(≧▽≦)。

でも、大國屋さんの鰻に出会ってからは大好物になりました♪
(あまり分厚くてコッテリとした鰻が得意じゃないんですね。)

そんな暑さが続く中、
座るとお尻で髪の毛を敷いてしまうくらい伸びたので


バッサリと(≧▽≦)♪

少し前に切って送ったのですが、
なんとなんと!
偶然にもツイ友さんが全く同じ日に髪の毛を切られていて
そして同じように寄付しようとされているではあーりませんか!(byチャーリー浜さん)

そしてなんと!
その日はツイ友さんのお誕生日でもあったというミラクル(≧▽≦)。

という記事も書かせていただいていましたので、
もうひっそりと送ってしまって
ブログに書く予定はなかったのですが

あまりのミラクルに、記念に書かせていただこうと(///∇//)。

私のような変人とお付き合いくださる方は
優しくて心の広い、素敵で奇特な方ばかりで
ネットで交流してくださっている方も
ぜーーーんぶの方を合わせても
10人前後の方くらいだと思うのですが

存じ上げているだけでも4人の方が髪の毛を寄付されていて、
その寄付率の高さにビックリしました(≧▽≦)。

なんだかとても嬉しかったです(*´▽`*)。

また次回も贈れるように髪を伸ばす予定ですが、
その頃には、
髪の毛がなくても特別な目で見られないような、
そんな世界になっていることを、願っています(*´▽`*)。

金平糖袋(実り)






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